2023.09.19 TUE
これからの時代における「SINIC(サイニック)理論」の役割や未来への視座を再確認することを目的とした連載企画「自然社会を迎える瞬間」。生物学者の福岡伸一さんとヒューマンルネッサンス研究所 エグゼクティブ・フェローの中間真一がナビゲーターとなり、多様な専門性を持つゲストをお招きします。
全5回シリーズの最終回となる今回のテーマは、SINIC理論の思想的な基盤のひとつにもなった禅。福岡伸一さんと京都「両足院」副住職である伊藤東凌さんが、禅と生命科学の観点から生命や人の意識の本質に迫り、「自然社会」を私たちの社会がよりよい形で迎える手がかりを提示します。
福岡:本日はよろしくお願いいたします。東凌さんは臨済宗の僧侶ということなんですけれども、まずは臨済宗(※1)の特徴について教えていただけますか。
伊藤:臨済宗もふくめた禅宗は、自己へ向き合う方法の実践を徹底する宗派で、日々の実践をとても大事にする所に特徴があります。
福岡:つまり、他の宗派に比べて自由というこということでしょうか?
伊藤:そうですね。時代の変遷とともに社会も人も変わっていきますから、通り一遍の教えだけではなかなか通じなくなってきています。禅宗は仏教の教えの伝え方も比較的自由に開かれているところがありますので、例えば両足院でも展示を行っていますが、アートなどの表現と組み合わせながら仏教の教えを広く伝えていく試みにも挑戦しやすいと考えております。
福岡:自由というのはいいですよね。私は生物学者として生命現象に向き合ってきて、いまだに生命とは何かを問い続けています。「命とは何か?」と問われたら、仏教者の立場から、まずはどのようにお答えになりますか?
伊藤:我々は認識するということを大事にしておりますので、例えば私がポンとこの扇子で何かを叩いたときに、「叩かれたぞ」と認識して何かしらの反応をするものが生命だと考えております。
福岡:反応のあるものが生命ということなんですね。生命科学の分野では、生命とは何かという定義についてもいろいろな捉え方があります。動くとか、呼吸をするとか、代謝しているとか、増殖するとか、そうした特性をまずは列記するという考え方で答えざるを得ない面があるわけです。しかし、特性ばかりをいくら列記しても、生命というものの本体にはなかなか到達できず、周縁をぐるぐる回ってしまうことになります。
私もそうしたことへの葛藤を抱えながらも、学問として生命を捉えるときには、その方法を取らざるをえませんでした。しかし、それだけでは不十分だと考えた末に、生命の内部から特性を捉えるアプローチに至ったことで「動的平衡」というコンセプトにたどり着きました。
動的平衡とは、生きている生命の内側で絶え間のない合成と分解や、結合と分裂など、相反することが同時に起き続けており、その上でバランスを取っている状態を指します。つまり、常に流転していることが生きていることの本質なのです。
エントロピー増大の法則という、万物は例外なく秩序がある状態から秩序がなくなる方向に向かうという宇宙の大原則があります。それにより、壮麗なピラミッドのような建造物であっても年月とともに風化してしまいますが、生命だけは自分自身を壊しながらつくり替えることによって、秩序をなんとか守っている。いわば動的平衡によってエントロピー増大の法則に抗っているものが生命だと私は捉えています。こうした考え方は、仏教的における無常や輪廻思想とも親和性があると思いますが、いかがでしょうか。
伊藤:まさに仏教の無常についての説明を聞いているように思いながら伺いました。福岡先生が生命の内部からその特性を捉えることで動的平衡に至った際に、そのプロセスや方法はどのようなものだったのでしょうか?
福岡:生命というのは部品ではなく部品と部品の関係、つまり両者をつなぐ「間」こそが実は大事なのだということに気がつきました。生命の外側から分析をすると、その「間」が取り除かれてしまうので、ものだけが残ります。確かにそれらは部品としてはそれぞれ大事なんですけれども、それらを単に寄せ集めれば生命ができるというわけではなく、その関係が大事だということにだんだんと気がつきました。
学問を登山に喩えると、色々な知識の吸収や解析を進めながら一歩一歩山を登っていくようなものです。そうすると、ある頂上に達しますが、そこから初めて見えてくる光景があります。私の場合は、それが要素還元主義的なアプローチや分析だけでは生命を理解することはできないという反省に立った上で、自分自身をパラダイムシフトしました。そうすることで、関係性やものの流れを大事にしながら物事を見ていこうという動的平衡の立場に転換していったのです。
※1 臨済宗:臨済宗は9世紀に中国の禅僧臨済義玄によって始まった宗派であり、鎌倉時代に栄西によって日本に伝来した。曹洞宗、黄檗宗と並ぶ日本三大禅宗のひとつ。
伊藤:臨済宗では座禅をして瞑想をします。人が瞑想する時、具体的に何をしているのかというと、自分自身の外で起きていることも内側で起きていることも、じっくり観察するように受け止めていきます。例えば雨が降ってきた時に、普段であれば、雨の音を認識すると、「傘を持ってきていないな」とか「予定を変更しなきゃ」と、関連する別のことに意識が向いてしまうので、それ以降は、雨の音を聞いているようでいて聞かなくなることが多いはずです。瞑想というのは、そういう時に、流れて変化し続ける音に対して継続的に意識を向ける練習だといえます。
身体に関しても一緒ですね。怪我や病気など大きな変化が出てきて初めて身体の存在や変化に対し、つぶさに意識が向くわけですけれど、そうではないときでも、刻一刻と変わり続ける小さな変化を見ていく。このように、すべての事物は常に流れ続け、決して止まった存在ではないということをはっきり認識するのが、まずは瞑想の第一歩だといえると思います。
福岡:生物はたとえ止まっているように見えても常に変化し続けていますね。例えば、一見すると同じ所にじっと留まっているように見える植物も、実は絶えず動いています。細胞の中はどんどん代謝されて、外からやってくる分子がそこに一瞬止まっても、またそこから流れ出ていきます。これは動物も植物も同じですよね。そういう目に見えない流れを感じ取るのが瞑想だと考えると、非常に腑に落ちます。
伊藤:そうですね。先ほどお話した自分の外側と内側に関して説明をする時は、最初は外に意識を向けて、次はあなた自身の身体に意識を向けてくださいと区切って説明をします。まずは区切らないと、なかなか理解のとっかかりをつかめないので、まずはそのようにお話するのですが、次の段階では、内と外と呼んでいたものの境界線をぼかして曖昧にしていくことを意識してもらいます。そのように内と外という境界から離れることは、仏教でいう「我」という非常に厄介な存在によるとらわれから、一時的にでも離れることにつながります。
福岡:人間は言葉を生み出したおかげで、この世界を構造化したり、ものに名前をつけたり、いろいろな仕組みを理解することができました。しかし同時に、言葉にはさまざまなものを分節化する性質があります。今おっしゃったように内と外を分けたり、壁をつくったり、切断したりする作用があります。これを私はロゴス作用と呼んでいます。ロゴスは文明や社会を構築して人間を非常に豊かにしましたし、基本的人権のような概念をつくり出しましたが、本来なら連続しているものや、その間にある関係性すらも過度に分断する側面もあります。瞑想によって内外の壁を溶かしたり、つないでいくことができれば、とても素晴らしいと思います。
福岡:東凌さんは、「梅干しからトマトへ」というメッセージを掲げておられるということなのですが、具体的にどういうことなのか教えていただけますか。
伊藤:お寺に座禅をしに来られる方にその動機を質問をすると、多くの方が「もっと自分の中にぶれない軸を持ちたい」ですとか「揺るぎない自己を確立したいです」とおっしゃいます。「自己肯定感が低いので、それを高めたい」という方もいます。私からすると、この自己と呼ばれているものの捉え方自体が、少し硬直しすぎていると感じます。ですから、私は座禅を体験する方々に「ゆらゆらなフォームこそが最高のバランスです」とお伝えしています。
福岡:動的平衡ですよね。止まると命は止まりますから。
伊藤:仏教では「無我という境地」という言い方をしますが、無我に至るのはなかなか難しいので、その前に忘我を体験していただきます。つまり我をしばらく忘れる、あるいは少しゆるめる。自己と思っているものが、梅干しのようなものだと考えると、その中心に堅い種があるということになります。間違えてガリッと強く噛んでしまうと歯が欠けてしまうかもしれません。揺れない自分やぶれない自分を目指すということは、この種をどんどん堅くて大きなものにしていくということです。
それよりも、自分というものの核だと思えているものを、もっと分散的に見ていくことを提案しています。中心にひとつの堅い核があるのではなく、小さなたくさんの自分の核が自分の中に散らばって集まっているような捉え方をするほうが、柔和で優しく生きていけるのではないかとアドバイスをすることが多いんです。
福岡:無我に達するのは簡単なことではないので、まずは忘我とおっしゃいましたけれども、臨済宗では、無我の境地の無というのはどういうものだと考えられていますか?
伊藤:自分というのを一つの固定したものとして見るのではなくて、集合体であるという見方がまず無我に近づいていく一歩です。仏教では、無常という概念と併せて無我を捉えますが、物事が変わり続けるなかで、自分というものが変化が遅いものや時として固定されたものとして見えてしまいがちです。
しかし実際には、周りとなんら変わりない、自分もまた本当に変わり続けているものだと識るということです。それを踏まえて自分もその周囲にある森羅万象もまた、多くの事物が集合した存在であると理解するということです。鳥の声、雨の音、風が葉っぱを通る音。言葉でいうよりも、実際に耳に入ってくる振動というのはもっとたくさん存在し、その振動を受け止めている自分もまた振動している。このように多と多の重なり合いとつながりの無数の糸を見ていくことが無我であって、あるとないを超えた無数というのが無我の境地なのだと思います。
福岡:そのお話を聞いて思い出したことは、哲学者の西田幾多郎(※2)のことです。西田先生は、鈴木大拙(※3)の盟友で、西田哲学の背景にも禅の思想があります。西田先生のおっしゃる「絶対無」は、何もない状態を指すのではなく、あることとないことが同時に存在している状態です。存在と非存在、あるいは合成と分解、そうした逆の流れが同時に存在している状態を絶対無としています。つまり、非常に動的なものが無であるということです。
自分を構成しているさまざまな原子や分子、あるいは自分を一瞬ごとにつくっている情報が常に無数の糸と環境との間に結ばれていて、それらも絶えず揺らいで動いている。それが自己、あるいは自我を解放して、無数のものに近づいていると考えることは、我々を自由にしてくれると思うわけです。
それは未来を考えるということにもつながっていくと思いますが、仏教、あるいは臨済宗の教えの中に、自分に対する過去・現在・未来いった時間をどう捉えているかについて、何か教えのようなものがありますか?
伊藤:時間に関しましては、やはり「今」ということをとても大事にしています。とくに人の悩みごとを伺うと、大抵は過去のことを悔やんでいたり、先のことを恐れていたりと、常に過去や未来にとらわれている方が多い。それに対して、今に集中して、その今をいかにクリアにしていくかということを、よくお話しています。今以外の時間はないのだと。
福岡:素晴らしいですね。過去や未来というのもロゴスがつくり出したある種の幻想というふうに考えることができますよね。そして私は、他の生物にとっての過去・現在・未来といはどういうものかというように、いつも人間の視点から距離を置いて考えるようにしています。そうすると、単細胞生物であろうが、猫や犬、あるいは猿といった割と高等な生物であろうが、過去にとらわれていることはないし、未来を恐れていることもない。今を生きているだけですよね。
※2 西田幾多郎:京都学派の創始者。京都大学名誉教授。禅の修学を踏まえた『善の研究』で「西田哲学」を確立。主観と客観が分かれる前の「純粋経験」を手がかりに、人間存在に関する根本的な問いを考察した。
※3 鈴木大拙:日本の仏教学者、文学博士。禅についての著作を多数英語で著し、日本の禅文化を海外に紹介した。
福岡:さきほど伊藤さんは、梅干しからトマトへとおっしゃいましたけれども、私はそのトマトにあたる部分を蚊柱のようなものだと捉えた方が、より真の生命のあり方に近いのではないかと思います。目に見えないくらい粒が小さくなり、分散して絶えずその粒が外と入れ替わっている状態ですね。
生命は38億年前から流転しながら存在し続け、個々の生命は絶えずさまざまな物質やエネルギーや情報を受け取りながら、長い歴史の中での一瞬とも言える時間だけ、一生という形で個体が淀みのように構成されます。しかし、それらは絶えず揺れていて、時間が経てばまた環境の中へと還っていくものだと考えると、自我あるいは自己というものはそれほど確かなものではなく、環境とつながって常に動的に揺らいでいる存在だといえます。
実際に我々の身体でも、各臓器や各細胞はものすごい速度で代謝されていて、消化管の細胞は2、3日で入れ替わってしまいます。ですから、去年の私と今の私を比べてみると、物質レベルでは、ほとんど入れ替わっていると言っても過言ではありません。
唯一、記憶というものがその人の自己を支えているのかもしれませんが、その記憶も脳の配線にある電気が通ったときに思い出される現象にすぎません。いわば記憶はその瞬間ごとにつくり出されている幻想ですから、それもあまり確かなものではないでしょう。
存在が不確かだからこそ人間は自分を守るし、死ぬことを恐れるわけですけれども、死というのはある種最大の利他性と見ることもできます。自分が死ぬことによって、それまで自分が占有していた空間や資源を新しい生命に手渡すことができますし、それが起こるから生命は連続しているわけです。そう考えると、やはり自己というものに執着しすぎるのは、本当の自然のあり方から離れているロゴス的な幻想であり、執着だと感じます。
伊藤:私たち仏教者も葬儀などを通して人よりも多くの死に触れますが、死こそが最大の利他性というお話には、ちょっとドキッとしましたね。自然の中やそれこそ寺院の庭先でも、毎日のように虫がコロッと死んでは自然に還って、また別の個体が生まれていきますが、人間の場合は、死を迎えると特別な方法で埋葬します。例えば現代の日本では遺体を焼成してお骨を石の中に閉じ込めてしまいます。
福岡:身体を構成する大半の物質は、結局二酸化炭素や水に変わって、環境の中に分散することで植物の栄養になったり、大地の微生物の栄養になったりして、流転していくわけですよね。現代の人間は他の生物に食われてしまうことは少ないですが、埋葬するにせよ、チベットの鳥葬のように他の動物に食べさせるにせよ、結局のところ環境に還しているということには変わりがないので、その一部をお骨にして、つぼに入れて保存するというのは、流転する生命があまりにも儚いので、なんとかそれを固定したいという、人間の儚い願いなのかもしれません。
福岡:もう一つお伺いしたいことがあります。「分別」という言葉が仏教の教えにありますけれども、これはどういうものだと捉えたらいいのでしょうか。
伊藤:分別知は、福岡先生がおっしゃったような言葉の持つロゴスの作用によってできるだけ細かくものを見て、混ざり合わないように分けて物事を知っていくことを指します。これはこれで極めて大事なことですが、仏教の修行においては、分別知というのをあまり重要視しない、むしろ分別知を超えていきなさいということで、「無分別智」という言い方をします。
鈴木大拙も「即非の論理」(※4)のくだりで、「山これ山といふにあらず、山これ山といふなり……」という『雲門広録』(※5)の言葉を引用しています。我々はすぐに、山を見たときに「あれは山だ」という言葉で捉えて、そのありようや全体をつぶさに見ることを放棄してしまうわけですけれど、無分別な状態というのは、一旦その言葉から離れて捉えたうえで全体性をつかもうとします。とはいえ、分別を全否定しているわけではなくて、無分別を理解したうえでの分別をしなさいという教えがありますね。
福岡:それはとても大事ですよね。言葉で山だと捉えてしまうと、それだけで理解したつもりになり、自然としての山を見なくなる。つまり言葉の持つロゴス的な作用に依存してしまいがちです。ですから、そうして捉えた世界は本当のこの世界ではないことを、常に肝に銘じながら言葉を使うということですよね。
伊藤:臨済宗もふくめて禅というのは、仏教思想に中国の道教や老荘思想などがブレンドされています。そうしますと、自然こそに答えや道があると考えるので、よりロゴスから離れていきます。人間ももちろん自然の一部なのですが、自然と切り離して、自分たちだけが特別だと考えたり、ましてや自然をコントロールする対象として見るのではなくて、どうやって自然の一部としての感覚で生きていけるかを重視します。
福岡:それは大変素晴らしい自然観だと思います。いかにロゴスから離れるかといっても、例えば原始時代のような混沌としたピュシスに帰れということでもないですよね。言葉を手放すことのできない人間は、どこまでもロゴス的な方法でしか生きられません。ですから、ピュシスをより解像度の高い新しい言葉で言い直しながら、ロゴスとピュシスを行ったり来たりしながら生きるしかないと思います。
伊藤:おっしゃるとおりだと思います。ロゴスを徹底的に否定して、すべてピュシスに転換しろというのではなく、行ったり来たりすることが大切だと思います。そうしたとき、ピュシスを回復するための、誰でもできる実践方法として、福岡さんならどんなことが考えられますか?
福岡:自分の好きなことを好きであり続けるということが、ピュシスを忘れないということにつながると考えています。私の場合は少年時代に夢中になった昆虫採集が原点にありましたから、今も自然との触れ合いで、ピュシスの広がりというのを感じるという感覚を、忘れないようにしています。
伊藤:自然との触れ合いや遊びが本当に大切ですよね。一方で、科学が発展して我々の生活が便利になる、こうしたテクノロジーとピュシスの関係は直観的には離れたものに思えます。テクノロジーによってピュシスを回復する方法というのは考えられるのでしょうか?
福岡:テクノロジーはある意味でロゴスの究極形ですから、どうしてもピュシスから離れていってしまいますよね。でも、ロゴスの新しい形として、これまで私たちが分節化しすぎたロゴスをつないでいくテクノロジーもあると思います。例えばAIを使った翻訳ツールによって言語の壁を溶かしていくこともそうです。それから、距離や時間によって隔てられていた人たちがコミュニケーションをすることができますよね。
出会ったり、互いに交流するということはピュシスに属することだと思うんです。関係ということですから。ですから、テクノロジーの未来として、これまで人間が築いてきた言語の壁や、国境の壁や、文化の壁や、民族の壁を溶かすというあり方に私は期待したいなと考えています。分節化されたものをまた再結合していくことにテクノロジーの未来があるのではないでしょうか。
伊藤:関係というのがかなり大事なキーワードになると思います。テクノロジーによって新たな縁起が生まれて、自分の中ではもうつながっていないと思っていた糸が、もっと可能性のある糸という形で再びつながっていく未来を想像するとワクワクしますね。それによって自分を縛っていたロゴスの縄が少し緩まるかもしれません。
福岡:そうですよね。自己というものを縛っている縄を解いて、もう少し大きな生命の流れに戻るというか、参加するという意識が大事なんじゃないかなと思います。そうした心構えが10年後に自然社会を私たちがより良い形で迎える準備になるのではないでしょうか。
※4 即非の論理:鈴木大拙が著書『金剛経の禅』の中で「般若の論理」として提唱した、禅の立場から解き明かした般若経の根本原理。
※5 雲門広録:唐末から五代の時代に活躍した中国の禅僧、雲門文偃(うんもんぶんえん)の語録。
Writer:高橋ミレイ
伊藤 東凌 臨済宗建仁寺派両足院副住職
建仁寺派専門道場にて修行後、15万人以上に坐禅指導を担当。アートを中心に領域の壁を超え、現代と伝統を繋ぐ試みを続けている。アメリカMeta本社(旧Facebook)での禅セミナーの開催などアメリカ、そしてアジアやヨーロッパ諸国での禅指導など、インターナショナルな活動も積極的に行う。2023年『Forbes Japan』にて「Next100」、『Newsweek』にて「世界が尊敬する日本人100人」に選ばれた。近著『忘我思考 一生ものの問う技術』(日経BP)。
福岡 伸一 生物学者・作家
1959年東京生まれ。京都大学卒。米国ハーバード大学医学部博士研究員、京都大学助教授などを経て青山学院大学教授・米国ロックフェラー大学客員教授。大阪・関西万博(EXPO 2025)テーマ事業「いのちを知る」プロデューサー。サントリー学芸賞を受賞し、88万部を超えるベストセラーとなった『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)など、“生命とは何か”を動的平衡論から問い直した著作を数多く発表。近刊に『新ドリトル先生物語 ドリトル先生ガラパゴスを救う』(朝日新聞出版)、『音楽と生命』(共著、集英社)など。
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