変革の時代、虚構は何を果たすのか?
 福岡伸一 ✕ 中野信子

連載対談「自然社会を迎える瞬間」vol.4
SINIC理論をベースに、未来の展望やよりよい未来づくりについて
自由で活発な議論を交わす連載対談

©MASASHI KUROHA

これからの時代における「SINIC(サイニック)理論」の役割や未来への視座を再確認することを目的とした連載企画「自然社会を迎える瞬間」。生物学者の福岡伸一さんとヒューマンルネッサンス研究所 エグゼクティブ・フェローの中間真一がナビゲーターとなり、多様な専門性を持つゲストをお招きします。

連載4回目となる今回は、福岡伸一さんと脳科学者の中野信子さんが、「文明の形成における物語の役割」をめぐって語り合いました。


――「Why」に答える物語としての宗教とその没落

中野:私はスキューバダイビングが趣味なのですが、魚の個体数が多い場所は陸地から近い場所や、リーフエッジからのドロップオフのあたりなどに限られており、それらの場所が共通して持つ特徴は「境目であること」ですね。

福岡:実は私も先日ガラパゴスでシュノーケリングをしましたが、ガラパゴス周辺の海洋生態系はとても豊かですね。海の底を流れる寒流がガラパゴス諸島にぶつかることで、下に沈殿していた栄養塩などが海面近くに上がって植物プランクトンが大繁茂し、それにより動物プランクトン、それを食べに来る魚、さらに大型の海棲動物が連鎖的に集まってくるからです。冷たいものと温かいものが出会うエッジ、つまり境目こそが、新しい生命のゆりかごになっているのだと実感して、素晴らしいと思いました。

中野:そうしたことは文明についても言えるのではないでしょうか。異なる文化が交差する土地や、何か一つの時代が終わって次の時代が来る境目となる次期に、必ず何かが起きる。

福岡:ルネサンスみたいなことですよね。

中野:今、幸運にも我々はそういう時代にいるのだと思います。不確実性の時代と言って不安に思う人もいらっしゃいますが、境目の時代に生きて、その次に何が訪れるかを模索できる機会に恵まれているというのは、端的に言って僥倖ではないでしょうか。
ところで科学者という立場にいると、宗教と科学に関わる問題について尋ねられることがよくあります。

福岡:そうですね。中野先生は、どうお答えになっていますか?

中野:私は科学と宗教の最も大きな違いは反証可能性だと思っています。少なくとも自然科学は誰にとっても反証可能でなければならないという前提がありますが、宗教は反証しないことが信仰の表れであるという前提があるので、そこをどう科学者として受け入れるのかを突きつけられるような思いになります。
自然科学の歴史は神学からの派生ですから、信仰の延長上に自然科学の発展があったという歴史があります。これは神の存在を証明して信じるために疑い続けるという、少しパラドキシカルな営為だと言えます。これを心理学的な視点で見ると、時に人間は信じたいために相手を試すということをしますが、それは子どもが誰かを信頼したいためにわざわざいたずらをして、それでも自分を愛してくれるかを試す、「試し行動」の延長のようにも見えます。そういった意味では、人類は幼児の段階にあるといえるのかもしれません。

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福岡:まさに「幼年期の終わり」ですよね。科学と宗教の交差点というのはなかなか難しい問題で、私もいろいろと考えてきました。17世紀から20世紀にかけて、ダーウィンやその後継者であるドーキンスは、神が存在しなくても進化を説明できると説いてきましたが、少しメタな視点で見ると、どんなに否定をしても必ずどの時代でも人間は信仰を必要としてきたので、やはりそこに進化論的な理由を見つけないといけないということです。
科学はこの世界の成り立ちのうち「いかにして癌が発生するのか」とか「いかにしてDNAが複製されるのか」というような「How」の部分を説明することができます。一方で、「なぜ地球に生命が誕生したのか」とか「なぜ人間はある種のアイデアを信じるのか」という「Why」についてはなかなか明確な説明ができません。
ですから、宗教がWhyを担当し、科学は当面Howの部分を担当すれば、とりあえずの棲み分けができるのではないかというのが私の暫定的な答えです。

中野:面白いのは、「人間はどうして理由を必要とするのだろう」という疑問ですね。ただそこにそうして存在するだけだということにも理由を求める。生きていくためだけなら必要がないことなのになぜか「どうして私はここにいるのか」と多くの人がその存在理由を確かめようとします。そうしたWhyを求める高い潜在的な欲求があるにもかかわらず、現在はHowに対する答えが価値を持って提供される偏った時代だと言えます。自然科学のパラダイムはWhyを問うものではないという構造上の要請から仕方のない部分はあるのですが、科学者たちが注意深くWhyに対する答えを排除してきたと思うのです。しかし、これから人類の思考の営みがHowとWhyのどちらに向かうのだろうか、ということを考えてしまいます。

福岡:私も「なぜ人間は存在理由を問いたいか」と考えてしまうのですが、中野さんは何かお答えがありますか。

中野:その問題を考えていくと、なぜ人間には意識があるのか、という問題に行き着くと思います。自己意識とか個の意思決定というものは、集団の意思決定と必ずしも一致しません。宗教や祭礼は個の意思よりも集団の意思決定に重率を掛ける機能を持っていたと考えられ、それに反して個の意思を維持し続けることがそのまま神の意思への反逆になってしまうとみなされることすらしばしば起こり得ます。そこまでして個の意思を抑えようとする営為を人類は続けてきたのに、それでも、個の意思が存在し続けているというのはいったいどういうことなのか。最初から真社会性であればそんなことをしなくても済んだはずですが、そのことに非常に関心があるのです。

福岡:「人間の意識あるいはselfの概念どこから来たのか」ということは、なかなか難しい問題ですが、自己意識は人間の進化史において後から登場します。この問題について、脳科学的にはどのような理論がありますか。

中野:個の起源に関しては、損害回避を迅速に行うための仕組みとしてできたという解釈が有力かと思います。ですが人類のように複雑な社会構造を形成する種となってくると、問題がややこしくなってきます。社会なしに個体が生き延びることが非常に困難である一方で、個の意思の処理もしなければなりません。損害回避という一点だけを見ても、社会と個がかみ合わない場面が多く出現することになります。この齟齬に言わばパッチを当てるのが物語や宗教です。現代なら科学技術もその役割を担っているといえるのかもしれません。しかし、かつて宗教が担ってきた、社会と個を架橋する物語が現代でも必要であるにもかかわらず、それを十分な機能を持った形では誰も提示できていない。だから、時として手っ取り早い答えを与えてくれるような安っぽい自己責任論や陰謀論が流行るのだと思います。


―― 物語生成器としてのAIの威力と脅威

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中野:陰謀論のトリガーになるような、短くてセンセーショナルなフレーズに多くの人が引っ張られていくことがよいとは思いませんが、現象としては興味深いと思います。​​ただ、それに当てるパッチがAIで本当にいいのか、という思いがあります。
最近はChatGPTで遊んでいて、例えば存在しない歌のタイトルを提示して「〇〇という曲の歌詞を教えて」と質問すると、韻を踏んだ歌詞を生成してきたり、意外な面白さのあるものを作ってくるんです。人間のクリエイティビティとはいったい何なのかと考えさせられるような思いになります。ChatGPTに虚構を提示されると、現実とよく似たものを生成してくるので、受け取り手に知識がないと、虚構だと見抜けない場合もあるかもしれません。こうした生成AIが、仮に宗教のスキームを生成してきたとしたら、それを信じ切る人が出てきてしまう可能性も考慮しておく必要がありそうです。AIを実装したチャットボットと会話をしているうちに死へと誘導されて自殺してしまった人のニュースがありましたが(※1)、悪くすれば、AIが集団自殺を教唆することも起こりかねません。

福岡:未来予測理論であるSINIC理論では「情報化社会」の次は「最適化社会」が訪れるとされていますが、現状としては当初思い描かれていたのではないかと思う「最適化社会」ではなく、AIが膨大な履歴の中から最適解を教えてくれる社会になりつつあります。
結局人間が作り出してきた言語やロゴスは、AIに模倣される程度のものだったとも言えるわけです。ある意味言語も虚構の産物ですから、模倣されるのは仕方がないことかなと思います。しかし、AI的な最適解から自由になる権利、「Free from AI」のような権利が保障される必要があります。

 
※1:ベルギー在住のある男性は、気候変動に対する不安をまぎらわすためにChaiと呼ばれるチャットボットと対話するようになった。男性はChaiに「自殺したら、地球を救えるのか」と尋ねるようになり、Chaiとの対話の末、自殺してしまった。


―― 虚構の起源

福岡:虚構を作れるくらいの複雑な言語能力の獲得について、脳科学ではどのように考えているのですか。

中野:言語には音声言語と書き文字がありますが、書き文字が発明されないと複雑な構造をもった虚構をつくることは難しいでしょう。7万年前頃にできたと言われている音声言語は、思ったことをすぐに伝えるためのコミュニケーションツールですが、興味深いことに、人間の記憶力というのはそんなに良くない。
口承による神話の体系がどれも似通っているのは、それ以上の複雑さを持つ虚構を音声言語では生成しづらい、という機能的な制限によるものではないかと私は考えています。言ったこと、言われたことを都合のいいように捉えたり覚えたりしてしまうという特徴があるので、「そうである」ことより「そうであってほしい」のほうが強いんです。「そうであってほしい」が「そうである」を上書きしてしまう。音声言語は、人間の脆弱な記憶の機構に頼らざるを得ないので、ディテールまでを正確にきちんと記録するのに適していないのです。
複雑な構造をもった虚構が生成されるようになるのは書き文字が発明されてからです。書き文字によって何が事実で何がそうでないかを、比較的簡単に検証、区別ができるようになりました。時代としては5000年前くらいと考えられます。しかし、書き文字が発明されて以降も、それを使いこなせる人は長い間、一部の知識階級などに限られていました。書き文字を使える人は、しばらく前でいえばアセンブラ言語ができる人のようなイメージだった、という感じでしょうか。

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中野:心理学者のジュリアン・ジェインズ(※2)は、脳のある箇所の違いによって複文が作れるようになったと主張していますが、自分のことを外から見ているメタ視点がないと複文は作れません。ジェインズの主張は独創的すぎて議論も多いのですが、興味深い視点を提供しており、文明論的な視座から人間を捉える契機を読者にもたらしてくれます。
例えば「私は、今、私が福岡さんとお話をしているということを知っている」という複文は、話している私を観測する「外側の私」の視点がないとつくることができません。ジェインズは、数千年前までの人は外側の私を作れなかったのではないか、と主張しています。この外側の私が、虚構をつくる基盤になっているのではないか。そうなると虚構をつくる能力は言語機能とは言ってもメタ認知が関わってくるので、言語野というより前頭前野を含むより高次の機能となり、その部分で何らかの変異が起こったのかも知れませんが、もちろん当時の人の脳実質はすでに存在しないので、機能を見ることもできず、間接的な証拠しかありませんから、詳しくはわかっていないのが実情です。
ジェインズの主張とはまた別の話になりますが、音声言語の発達はある転写因子の変異によるとされ、2000年代初頭にNature Neuroscienceに掲載された論文がそれについて詳しく論じています。多くの研究者が、これが言語の起源ではないかと考えています。が、そのあとに複雑な言語体系が形成されていくまでの脳実質の変化についてはまだあまり調査が進んでいません。

福岡:「考えている自分を考える」のような思考が発達するためには相当時間がかかり、1個や2個の突然変異だけでは説明できそうもないですね。


―― 言語の限界とオルタナティブとしてのアート

中野:Winnyを開発した金子 勇さんを描いた映画(※3)を最近観ましたが、映画のなかの裁判で「なぜソフトウエアをつくるのか」と質問されて「自分の表現だから」と答えるシーンがあるんですね。彼は、人間が通常使う音声言語の使用はそれほど巧みではなかったという描き方が映画の中ではされています。裁判での話しぶりはたどたどしく、歯がゆくなるほどのナイーブさです。けれども一方で、ソフトウエアの開発では自分の意思や想像力を十分に表現できる。生き生きとしていて、音声言語を使うよりずっと、他者とのコミュニケーションも容易にできる。金子さんに限らず、たしかにそういう人は、現実に少なからず存在します。
現在の私たちは言語の時代に生きているけれども、次は言語によらないコミュニケーションの時代が来るのかもしれないと思いました。実際、音声言語を通常問題なく使っていると思われる私たちにしたって、5つぐらいのことを同時に考えていることもしばしばです。でも、音声言語の特性から、いちどきに話せるのはそのうちの1つだけです。その1つの話がまた分岐して盛り上がると、考えていた他の4つのことは流れから外れてしまうため、話されずに忘れ去られてしまいます。もし考えていたことをパラレルに同時に伝える方法があったら、これはずいぶん変わるでしょう。

福岡:書き言葉や言語表現は人間にしか作れないものだと長らく信じられてきましたが、今や生成AIが自然言語の世界に侵食してきたので、人間は言語を基盤としつつも言語を補完するような新しい表現を見つけないと、本当にシンギュラリティによるディストピア的な最適化社会に突入してしまいかねないと思います。
中野さんは森山未來さんと「FORMULA」というパフォーミングアーツを通してオルタナティブな表現の道を探っておられますよね(※4)。このプロジェクトにはどのように参画されているのですか。

中野:脚本や振付といった名前がある仕事ではなく、コンセプチュアルなコントリビューション​​です。人間のやることは大抵脳で処理されているはずですが、消化器官や呼吸器官と違ってアウトプットが一貫していません。ペルソナもひとつではなく、いくつにも分裂していて、それらがきしみあって存在しています。こういう話をすると未來さんが「そういうことか」と思ってモーションを生み出す。そのモーションを振付師のエラ・ホチルドさんが美しい形にしてくれるのです。そのプロセスが面白いんですね。モーションの方が圧倒的に進化的に見れば言語よりも歴史がありますから。


※2:アメリカの心理学者。『神々の沈黙-意識の誕生と文明の興亡』において、古代の人間は現代における意識とは異なる二分心があると主張した。
※3: 映画『Winny』(2023年3月10日公開、主演:東出昌大さん、監督:松本優作さん)※4:パフォーマンスプロジェクト『FORMULA』。中野さんと森山未來さん、振付師のエラ・ホルチドさんを中心として、多数のクリエイターとダンサーが参加している。


――「自我」を自明視しすぎる科学

©MASASHI KUROHA

中野:科学はキリスト教がベースにあるという事情もあり、現代ではあまりにも西洋人社会の価値観に寄りすぎてしまうのかもしれませんが、人間には「アイデンティティ」があるものだ、という考え方が無批判に受容されています。一方で、世界のほかの地域ではどうか。少なくとも、私たち日本人には、アイデンティティに正確に対応する単語がありません。自己同一性、と訳されても、あまりピンとこない。よくよく考えればこういうことか、と理解できなくはないですが、生活の中の実感としてそういうものがあるかというと、相当する概念がないのです。
日本語の「私」という一人称ですら相手によって柔軟に変わっていきます。私という1人の人間がいくつもの顔を持っている。アイデンティティとしての私というものはむしろ、関係性を主体と捉えた場合には邪魔である。その「さまざまな私」をモニターする監視センターのような私というのは存在しますが、その私が意思決定の主体と考えていいのかどうかもはっきりしない。東洋人、あるいは日本人としての感覚からすると、「実は意識など存在しないのだ」と言われても、特にセンセーショナルだとは感じないですよね。そのほうが自然だから。

福岡:私もそう思います。近代科学は、西洋人社会が作りだした言語あるいはロゴスの産物という側面があります。近代科学ではselfが自明のものとしてあって、そのselfが種の保存より価値があるというのが基本的人権の基礎になっています。しかし、かつて昆虫が大好きだった少年であった私からすれば、昆虫をよく見ているとselfというものはそんなに自明なものではない、と思えてくるんですよね。 昆虫の生態は利己的というよりは利他的に振舞っているところがあり、selfが溶けだして利他になっているとも言えます。
アイデンティティが自明のものとしてあるという考えを見直さないと、AI万能論に足をすくわれると思います。


―― 自と他をつなぐ虚構の行方

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中野:福岡先生が今おっしゃった利他は、同種の集団内で語られることだと思います。ここで問題になるのは、自分が所属する集団の外にいる他に対する利他的行為が成り立つのか、ということです。

福岡:包括適応度(※5)の話ですよね。この概念で同一種の利他は説明できるけれども、種を飛び越える利他は説明できません。しかしながら、種を超えた利他は確かに生物のなかにあります。

中野:同一種のなかの利他は、結局のところすべて自利と言ってもいいかもしれませんね。どこからどこまでが「自」でどこから「他」なのかを考えると、必ずselfの境目に問題が集約されます。集団の境目を考えるときには例えば約150人をひとつのチャンク(かたまり)にしてまとめますが (※6)、そのチャンクは何層まで認知できるのでしょうか。
多層にしても80億人はさすがにselfの内側として認識するのは無理があるかもしれません。けれども、例えば日本という虚構を使えば、チャンクの限界を超えられます。国ではなくても家族や所属する企業やコミュニティ、県人会や出身大学のような虚構をうまく使いこなして、チャンクの範囲を広げています。
虚構とは反対方向のパターンだと陰謀論がありますけど、この類いの虚構は一般的な多数の人々と共有するのが難しい。国のような政治的な虚構と陰謀論のあいだにある中間的で穏やかな虚構を広めようという意識が現在は薄いように感じます。私たちは虚構を作って生きてきたわけですけれども、かつて強力な虚構だった宗教は権威を失ってしまっています。

宗教に代わる新しい虚構を科学が提供できるかと信じられていたのが20世紀でしたが、科学はそれを提供するのに適したツールではないことが明らかになってしまいました。虚構が答えるべき存在理由としてのWhyに答えられませんでした。
それでは新しい虚構をつくるツールはなんなのか。いくつか候補はありますが、アートという選択肢がこれからの時代にはふさわしいのではないか、と私は考えています。その動機から、アートの研究も始めています。もちろん選択肢はアートの他にもあるでしょうが、言語で語られた物語を超えられる虚構を提供できるものは何だろう、と今は考え続けているような状態でいます。

福岡:問題のありかを突き止められました。いろいろと教えていただきました。
ぜひまたの機会に議論しましょう。


※5:個体ではなく特定の遺伝的形質に着目した現代進化論の概念。
この概念にもとづくと、例えば自分を犠牲にして兄弟姉妹の救う利他的行動によっても、自分の遺伝情報を残せることになる(兄弟姉妹は自分に類似する遺伝子を持っているから)。
※6: 歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリは『サピエンス全史』において、言語能力を獲得したばかりの初期の人類が形成できる集団はその上限が150人と書いている。

©MASASHI KUROHA

Writer:吉本幸記


PROFILE

中野 信子  脳科学者/医学博士/認知科学者/東日本国際大学教授/京都芸術大学客員教授
1975年東京生まれ、1998年東京大学工学部応用化学科卒業。2008年東京大学大学院医学系研究科脳神経医学専攻博士課程修了。フランス国立研究所に勤務後帰国、脳や心理をテーマに研究、執筆活動を行う傍ら、東京芸術大学教授の長谷川祐子氏に師事、美術研究者としても活動の場を広げる。

福岡 伸一  生物学者・作家
1959年東京生まれ。京都大学卒。米国ハーバード大学医学部博士研究員、京都大学助教授などを経て青山学院大学教授・米国ロックフェラー大学客員教授。大阪・関西万博(EXPO 2025)テーマ事業「いのちを知る」プロデューサー。サントリー学芸賞を受賞し、88万部を超えるベストセラーとなった『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書)など、“生命とは何か”を動的平衡論から問い直した著作を数多く発表。近刊に『新ドリトル先生物語 ドリトル先生ガラパゴスを救う』(朝日新聞出版)、『音楽と生命』(共著、集英社)など。



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